水車・石臼のあれこれ

水車の歴史

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千数百年にわたって続けられてきた田植、稲刈り、脱穀・調整といった農作業の道具である鋤、 鍬、鎌がなくなろうとしている。
田植機やコンバインなどの導入のためである。それと同じく揚水用・精米用に活躍してきた水車もほとんど見られなくなった。
しかもこうした激変は近々30年間ほどのことである。

 水車は明治以後増え続けて、大正末期から昭和初期にかけて全盛期を迎える。
それが急減に転ずるのは戦後、とくに昭和30年代の高度成長期以後である。
現存する水車は玉川大学の調査によればほんの2~300台にすぎない。

 せめて現存する水車だけでも祖先伝来の貴重な文化財として保存したいというのが、私共の願いであって、
そば屋の店頭で見かけるような水輪だけが回っているような姿は好ましくない。
水車の全体系は水輪のほかに伝動機(車軸、歯車など)作業機(臼、杵など)、水路(堰)によって構成されるからである。
とくに水路は先人がその構築に苦心し、さらには水利権を争った結果の記念物である。

 

日本書紀にある水車の記録

 わが国の水車についての最初の記録は、「日本書記」(720)の第22の推古天皇の18年(610)のところにある。
それによると、「18年の春3月に、高麗の王、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴は五経を知れり、旦能く彩色及び紙墨を作り、
井て碾磑造る。蓋し碾磑徴を造ること、是の時に始るか」
とある。右の文中にある碾磑(てんがい)とは、水力を利用した臼である。

 大宝元年(701)に制定れた大宝令雑令の中の碾磑については、「凡そ水を取り田に灌漑せんとするには、皆下より始め順次
使用せよ、其渠によりて碾磑を設くるには国郡司を経、公私妨害なくば之を聴許せよ」
と書かれている。
 それから更に年代が下がり、天治元年(1124)僧正行尊が水車を見て、
「早き瀬にたえぬばかりぞ水車 われも憂世に廻るとをしれ」と詠んでいる。 
 建久6年(1195)の「東大寺造立供養記」には、水車で多量の米を搗き、人力を省いたという記録がある。
後に「徒然草」(1330年頃)の兼好法師は51段の中で、
「嵯峨の亀山殿の池に水をひくために、大井の百姓に命じて水車を造らせた。たくさんの費用を出し、数日かかって仕上げたが、
いっこうに廻らなかった。そこでこんどは、宇治の村人を召してつくらせたところ、やすやすとつくってさしあげ、思うどおりに廻って
水をくみあげた。なにかにつけ、その道を知っている者は、とうといものである。」
兼好のすばらしい写実文により、我々は宇治の村人が実用できる水車を作る技術をもっていたことを、はっきりと知ることができる。

  江戸時代中期の享保11年(1726)里の旧族なる須永市郎左衛門氏。
「 …京摂見物の途すがら舟にて淀川を下りしとき、ふと水車を観、此を利用して米を搗かば、労力を省く如何ばかりならんと思い、
帰郷の後大工某を伴いて再び淀川に往き、某製作を研究しこれを模造せしめ、菊川の水を引きてこれを運転し、
もって穀類を搗くの用に供したり。労力を省く大にその便利いうばかりなく佐野地方の搗穀の法に一変化をきたし、
とある。
農家の喜ぶこと限りなし。…おいおい評判高く関東一般に及ぶべり」

動力の移り変わりによる水車の衰退 

動力の移り変わりによる水車の衰退時代はずっと下ると、田村栄太郎は「日本工学文化史」(昭和18)の中に、
歴史2.jpg「備中松山城下用の水車場では前々から家中入用の穀物を搗かせており、また菜種や棉実の油しぼりに使っていたが、水の勢が弱く、領内の日羽村の用水に水車場をつくった。これも日照りつづきで休車することがたびたびおこって困っている。
どうしたらよいだろうか」
という伺書が享和元年(1801)に周防藩から幕府に出されているという。

 「一般の米搗きがはじまったのは元禄時代以後である」森周六氏「農機具の発達」(昭和23)ことは米の生産高が増えたことからも推察される。水車による米搗きは享保の頃には各地にあり、1700年代の中頃以後に全国に普及していった。

 幕末の開国以来百数十年は近代化と工業化の歴史であった。それを最も身近に示すのが動力(原動機)の移り変わりである。具体的には人力・畜力の利用から水力(水車)→ 蒸気力(蒸気機関) → 電力(電動機)と推移することで水車は次第に衰退した。

 ともあれ現在日本の各地に残っている在来型の水車が使われているところは、線香の原料である杉葉の粉砕用やわら打ちなど
特殊な業種かあるいはきわめて小規模の工場用のみである。かつて日本の水車が農村の穀物調整や加工用として、
また各種の小工場の原動機として活躍したのは明治、大正および昭和の初期であった。
なかでも水利に恵まれた地方では、各地に米搗きや製粉用の水車が存在していて、一般に水車といえば、この精米製粉用の
水車と考えてよい。そしてその風景が日本人の水車のイメージを作ったのである。

石臼の歴史

 今から約1万年前、氷河時代が終り、人類の活動が、にわかに活気を帯びてきた。
新石器時代のはじまりといわれる頃、人類は、もはや、狩りや採集に頼っていたのでは、生きてゆけなくなってきた。そこで手をつけたのが、いままで鳥などしか食べなかった草の実だった。この草の実を食べるのに役立ったのが、旧石器時代には大して注目されなかった叩き石と磨石を利用する粉砕法だった。草の実は、かたくてまずい皮に覆われている。これを取り除く必要があった。粉にくだいてから、皮の部分を風で吹きとばす精製法の発明である。原始的な叩き石と磨石(図1)の次の段階は、揖き臼(杵と臼)である。この発達に人類は数千年を費やし、そしてエジプト文明が成立した。この過程で衝撃粉砕(杵と臼)と、磨砕とがはっきり分化し、現代へとつづいているのである。

~回転式石臼と水車~

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(図2)は日本に残る伝統的な石臼である。そのルーツは何とローマ帝国以前のヨーロッパにあることは意外に知られていない。
日本に伝来するのは長い道のりを終えて伝わりその原型を今日にとどめている。今日までに知られている世界最古の石臼の遺物は、古代オリェントのウラルトウ王国の遺跡から発見されている。これは手挽きの回転式石臼である。

(図3)紀元前1270-750年にトルコ東部、ヴアン湖に近い山岳地帯にあった王国で、農耕や金属の技術も相当に発達しアッシリア帝国を包囲するほどの勢力をもっていたといわれる。

 

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