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株式会社田中地創 水車の製作・設計

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水車製作と出会い

そもそもの始まりは、昭和51年豪雪地帯の新潟県東頸城郡大島村の豪農「小野島家」の総欅造り茅葺屋根の豪邸を、小諸市に移転・復元して蕎麦屋にしてほしいとの工事の依頼からであった。

豪農「小野島家」の建物は、太い柱に太い梁、それらが複雑に組み上げられた上に、茅で葺かれた住宅であったため、それまでに経験した事のない規模の移転・復元工事で、もっぱら作業は人の手に頼らざるを得ず、悪戦苦闘しながらの毎日でした。特に茅葺の屋根の復元工事に関しては、小諸・佐久周辺ではすでに茅葺職人が減少していたため、職人の手配に奔走せざるを得ず、延べ800人工を掛けてようやく完成の目処が立ったところであった。

少々ほっとしているところへ、店主より「水車を造りたいが、水車大工が見つからない。なんとかならないものか。」とのたっての要請があり、水車大工を四方八方探したが見つからず、とうとう自分自身で造らざるをえなくなってしまった。これが、私の水車づくりの始まりであった。

いざ、自分自身で水車をつくるにあたり、参考にしようと小諸・佐久周辺で水車を探してみたものの、またまた見つけることができなかった。当地の水車は、昭和30年代の初頃には稼働または残骸はどこにも目にしたのであるが、40年代後半には殆ど姿を消して忘れ去られてしまった存在となっており、近県にまで足を運び残骸などを調査せざるを得ない状況でした。一通り見て廻り、本格的に水車の設計に取り組んだ。

水車の設計に際して、一番配慮した事は、軸受の構造でした。残骸調査では木材の軸受に水車軸が乗り木材同士で滑り合う構造が一般的であったが、磨耗給脂サイクル等メンテに問題有りと考え、軸受の木材の中に、水車軸のたわみ、木材自身の曲がり等による軸方向への移動が起きぬよう、凹状かつ球面加工を施した鋳鉄製のメタルを埋め込み軸側にもメタルに合わせ凸状の鋼製のリングを巻き付ける方法とした。ところが球面加工のためNC旋盤の使用を余儀なくされ、苦労は続くものでNC旋盤所有の工作機メーカーをやっと探し出し加工を依顛した。

水車軸以外の部品の加工についてはなんの心配もなく順調に進み、昭和52年3月に組立を完了し、いよいよ試運転の運びとなった。胸が高鳴る中、予定の水輪の回転数を確認し、次には搗(つき)臼も心地よい音をたててくれた。ホッと胸をなでおろす瞬間であった。しかし、碾(ひき)臼だけは快調とまでとはいず、少々ぎこちなく回ってしまった。少々落胆しているところに、蕎麦粉が挽き落ちだしてきた。その一瞬、「ヤッタ」と心の中で叫んだ。この感動こそが、私を水車造りの虜にしてしまったのである。これが、わたくしの手掛けた水車一号機が誕生した所以である。
この水車は、手入れをしながら、いまもいい音だして回り続けている。

会長 田中信一

水車の歴史

千数百年に渡って続けられてきた田植え、稲刈り、脱穀・調整といった農作業の道具である鍬、鋤、鎌が無くなろうとしている。田植機やコンバインなどの導入の為である。それと同じく、揚水用、精米用に活躍してきた水車も殆ど見られなくなった。

水車は明治以降増え続け、大正末期から昭和初期にかけて全盛期を迎えた。それが急減に転ずるのは戦後、特に昭和30年代の高度成長期以降である。

現存する水車は玉川大学の調査によればほんの200~300台に過ぎない。せめて現存する水車だけでも先祖伝来の貴重な文化財として保存したいというのが私共の願いであって、蕎麦屋の店頭で見かけるような水輪だけが回っているような姿は好ましくない。何故なら水車の全体系は、水輪の他に伝動機(車軸、歯車など)、作業機(臼、杵など)、水路(堰)によって構成されるからである。特に水路は先人がその構築に苦心し、更には水利権を争った結果の記念物であるからだ。

日本書紀等にある水車の記録

我が国の水車についての最初の記録は、「日本書紀」(720)第22の推古天皇の18年(610)のところにある。それによると、「18年の春3月に、高麗の王僧雲微(どんちょう)、法定を貢上る。雲微は五経を知れり、旦能く彩色及び紙墨を作り、井て碾磑(てんがい)造る。蓋し碾磑を造ること、是の時に始まるか」とある。文中にある碾磑とは、水力を利用した臼である。

大宝元年(701)に制定された大宝令雑令の中の碾磑については、「凡そ水を取り田に灌漑せんとするには、皆下より始め順次使用せよ、其渠によりて碾磑を設くるには国郡司を経、公私妨害なくば之を聴許せよ」と書かれている。

それから更に年代が下がり、天治元年(1124)僧正行尊が水車を見て、「早き瀬にたえぬばかりぞ水車、われも憂世に廻るとをしれ」と詠んでいる。

建久6年(1195)の「東大寺造立供養記」には、水車で多量の米を搗き、人力を省いたという記録がある。

後に「徒然草」(1330年頃)の兼好法師は51段の中で、「嵯峨の亀山殿の池に水を引く為に大井の百姓に命じて水車を造らせた。沢山の費用を出し数日かかって仕上げたが、いっこうに廻らなかった。そこで今度は、宇治の村人を召して造らせたところ、やすやすと造って差し上げ、思う通りに廻って水を汲みあげた。何かにつけ、その道を知ってる者は尊いものである。」この兼好の素晴らしい写実文により、我々は宇治の村人が実用できる水車を造る技術をもっていたことをはっきりと知ることができる。

江戸時代中期の享保11年(1726)里の旧族なる須永市郎左衛門氏によると「・・・京接見物の途すがら舟にて淀川を下りし時、ふと水車を観、此を利用して米をかば、労力を省く如何ばかりならんと思い、帰郷の後、大工某を伴いて再び淀川に往き、某製作を研究しこれを模造せしめ、菊川の水を引きてこれを運転し、もって穀類を搗くのに用に供したり。労力を省く大にその便利いうばかりなく、佐野地方の搗穀の法に一変化をきたし。農家の喜ぶこと限りなし。・・・おいおい評判高く関東一般に及ぶべり」とある。

動力の移り変わりによる水車の衰退

歴史家田村栄太郎の「日本工学文化史」(昭和18)の中に、「備中松山城下用の水車場では前々から家中入用の穀物を搗かせており、また菜種や綿実の油しぼりにも使っていたが、水の勢が弱く、領内の日羽村の用水に水車場をつくった。これも日照り続きで休車することがたびたび起こって困っている。どうしたら良いだろうか。」という伺書が享和元年(1801)に周防藩から幕府に出されているという。

農学者森周六氏「農機具の発達」(昭和23)に「一般の米搗きが始まったのは元禄時代(1688~1704)以後である」とあり、この頃米の生産高が増えた事からも推察される。水車による米搗きは享保の頃には各地にあり、1700年代の中頃以後に全国に普及していった。

しかし、幕末の開国以来、百数十年は近代化と工業化の歴史であった。それを最も身近に示すのが動力(原動力)の移り変わりである。具体的には、人力・畜力の利用から水力(水車)→蒸気力(蒸気機関)→電力(電動機)と推移した。それにより水車は次第に衰退していった。

ともあれ現在、日本の各地に残っている在来型の水車が使われているところは、線香の原料である杉葉の粉砕用やわら打ち等の特殊な業種か、或いは極めて小規模の工場用のみである。かつて日本の水車が農村の穀物調整や加工用として、また各種の小工場の原動力として活躍したのは明治、大正、及び昭和の初期であった。中でも水利に恵まれた地方では、各地に米搗きや製粉用の水車が存在していて、一般に水車といえば、この精米製粉用の水車と考えてよい。そしてその風景が、日本人の水車のイメージを作ったのである。

石臼の歴史

今から1万年前、氷河時代が終わり、人類の活動がにわかに活気を帯びてきた。新石器時代の始まりといわれる頃、人類はもはや狩りや採集に頼っていたのでは生きてゆけなくなってきた。そこで手をつけたのが、今までは鳥などしか食べなかった草の実だった。この草の実を食べるのに役立ったのが、旧石器時代には大して注目されなかった叩き石と磨石を利用する粉砕法だった。草の実は堅くて不味い皮に覆われていてこれを取り除く必要があることから、実を粉に砕いてから皮の部分を風で吹き飛ばす精製法が発明されたのである。

原始的な叩き石と磨石の次の段階は、搗き臼(杵と臼)である。この発達に人類は数千年を費やし、そしてエジプト文明が成立した。 この過程で衝撃粉砕(杵と臼)と磨砕とがはっきり分化し、現代へと続いているのである。

水車の型式

水車の型式(種類)は、分類方法がいくつかありますが、水車の利用形式により分類した種類をご紹介します。  

上掛水車

落差のとりやすい場所に用いられる。水受けに溜まった水の重量で回転する。水輪の幅を比較的小さくでき、水の吐出方向と水車の回転方向が同じであり、水量を受けやすく効率が良い。

中掛(胸掛)水車

導水路が水車のほぼ中心に向かって配置された水車。水車の効率が悪いため、水量と流速の安定的な管理が必要。

腰掛水車

落差が中掛水車と下掛水車の中間ぐらいで、水量が多いところに使用する。水の流速と重量よって回転するが、効率が悪いため、水路底形状を水輪との間に壁になるように設ける。

下掛水車

落差が中掛水車と下掛水車の中間ぐらいで、水量が多いところに使用する。水の流速と重量よって回転するが、効率が悪いため、水路底形状を水輪との間に壁になるように設ける。

揚水水車(筒水車)

灌漑や池などの水汲みに使用される水車で、水輪の周辺には多くの筒が囚定されている。構造は簡単なものが多く、材料などはありふれたもので作られている。

 箱水車(バッタン筒水車)

灌角の水受けをクモテの先端に偶数個取り付けたもので、落差はあるが水量が少ない場合に使用される。回転は間欠的であるが、水受けは装置全体から見ると大きく、2、4個などのものがある。

猪威(ししおどし)

シシオドシ、若しくはバッタリと呼ばれている。また、九州地方では水唐臼と呼ばれている。用途は、米橋き、陶上の粉砕等。

綱唐臼

綱唐臼は、用水路より作業床がかなり高いような場合に用いられる。用途は、米禍き、陶上の粉砕等。

ツッピンガー水車

落差はないが、水量のあるところに使用される。水輪の幅が広く、底板はない。起動力を得るには水輪の直径または幅を大きく作ればよい。

水輪について

後光カラミの形状

水車のデザインは、構造力学的な水輪部分のくもでの形です。

水輪の各部名称